24年目の朝

おはようございます。
見方、考え方が変われば人生が楽になる、
女活応援家の北山です。

阪神淡路大震災から24年が経ちました。
たいてい、震災の時間起きていますが、
今日は寝ていました。
と、いうのも、前回の投稿の時も割とギリギリの状態だったのですが、
あのあと大変なことになりまして…。
今かなり状態としては良くなったと言えますが、ずっとベッドの上です。
この話はまた体力があるときにするとして(笑)
今日は、阪神淡路大震災の話。
地震大国に住みながら、私たち日本人は、
それに合わせて耐震性も考えてるし、
大きなことは起こらない。
阪神淡路大震災が起こるまでは大人含めてそう考えていました。
それが全て覆されたのがあの日です。
私は震源地のなった淡路島が近い姫路市に住んでいて、
当時マンションの5階の間取りの中では真ん中の部屋でした。
高校1年だった私は、あの日なんだか眠れず、
ワープロで文章を打っていて、
揺れが来ました。
1回目の揺れの後の大きな揺れに慌てながら机の下に潜りました。
揺れが止まった後、テレビをつけても、
どこも地震のことをやっていなくて、
孤立感が凄かったのを覚えています。
周りを見ると食器棚の中はぐちゃぐちゃ。
重くて動かせないような、大きな食器棚が。
飛び起きてきた家族も慌てています。
でも、相変わらずテレビではにこやかに、
なごやかに話をしていて、全く地震のことはわかりません。
地震から2時間ぐらい経ってようやく地震の速報が入った、そんな記憶です。
学校へ行くと来ている生徒は3分の1ぐらいだったでしょうか。
もっと少なかったかもしれません。
ほとんどが電車通学で、神戸から来ている子も居ました。
自宅待機になって家で観る映像は、
地獄絵図でした。
高速道路は横向きに倒れていて、
東灘区は燃えています。
親戚が住んでいるはずの地域も火の海でした。
不安しかない。
そんな日でした。
あれから耐震関連の事も色々変わり、
それだけ大きな震災だったのだと痛感されます。
あの日、またあの後の避難生活で
命を終えられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

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やりたい事が、あふれてくる。 一歩進むきっかけづくり 北山悠 の事業についてのサイト M's worksの活動は 日本商工会議所 小規模事業者持続型補助金採択事業です。

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